トレーニングにて、レッチリを聴く。
i-podを聴きながらトレーニングする。エアロバイクを漕ぎながら色々と試してみたのだが、一番合っていたのは何と言ってもレッチリのベスト盤だった。あまり複雑でもなく、何も考えてなくとも一つ一つの音が頭に入ってくる音楽である。(それって考えると恐いね)レッチリとは言ってもこのベスト盤に収録されている曲はほとんどが切なく喪失感丸出しのメロウ系の曲が集められたものなので、「いわゆる」レッチリとは違うのかもしれない。
ボクは特にレッチリのすごいファンではないが、「カリフォルニケイション」というアルバムだけは良く聴いていたので、それはなんだかボクの記憶に刷り込まれてしまったかのようである。それらの曲はボクにある限られたイメージを喚起させる。その頃ボクは一人でシドニーで暮らしていて、朝から晩までラジオを聴いていた。(ラジオでのみ良く聴こえる音楽というのもある。)一人で外国で生活する開放感や、開放感があるだけに深い孤独を噛み締めるように味わっていたように記憶する。それでもあれは得難い経験だった。レッチリのメロウな曲群はそんな感情を思い出させる。
あの喪失感は一体何なのだろう?と言うか、レッチリに限らずアメリカのオルタナティブ・ロックからは同じような印象を受ける。それはまるであの広大な大陸に呪いがかけられてるがごとき、逃れようとしても逃れられない「悲しみ」を一様に感じてるのだろうか?それが世界中の若者の心を打つのだろうか。
ある意味では音楽はそれぞれが抱えている、とても表には出せない/出したくない感情を大きく誇張した形にして取り出してみせるアートフォームである。だからアメリカ人の心の裏側/ダークサイドは世界中のそれと同等なのだと言える。それはあなたにもあるし、ボクにもある。それが音楽というフォームをとって、メロディやリズムとなって、それを好きになることで癒される部分があるのだろう。心の奥底にはまだまだ表面化していない感情が潜んでいる。ボクは時折それを引っぱりだし、救い出そうとする。それがボクにとっての創作という行為だ。時にそれはボクを打ちのめし、奈落の底に突き落とされる事もあるが、そこから救い出してくれるのもまた創作に他ならない。
ところでアメリカはあれだけ繁栄を極めようとする超アッパーで良くも悪くもイケイケ(古いか)な国であるにもかかわらず、そのようにして(計らずも)ヒットする曲は喪失感バリバリだったりする。シェリル・クロウを東京で聴いても単なるイモっぽいロックだが、アメリカの例えば国境付近のモーテルのダイナーでグッタリ疲れているところでラジオでかかってたりすると、もう本当に何の留保もなく心にスゥッと入ってくるものである。また、アメリカ文学も生きる事のつらい側面を描いたものに素晴らしいものが多い。(なので、「最近何か面白いの読んだ?」と聞かれても、困る。それはとても心を打つものではあるが、「面白い」なんて一言では片付けられないものだからね。)ああいう態度をとるし、また非道い事をたくさんやっているのですっかり嫌われものになっているアメリカだが、その心の奥は計り知れない暗闇を抱えている人間のようだ。なんとなくボクはそれが哀れでも、ある。
(ps、レッチリの新作も出るらしいですね。ポッキーに買わせてみよう。)
(ps、CFAC通信)こんな写真が送られてきました。
ハハハ、良いね!沢山の人からクラブへの入会希望や、今度CFを食べてみます、とのメールがきてます。写真も面白いので、何かあれば donuts@thezoobombs.com に送って下さい。